風情があるとは

9月29日
周りの人たちが言う。
金木犀の香りがよい季節になりましたね、って。
残念ながら僕は、まだ匂いを感じてない。
まだ、弱冷房車より普通車を選んでいる。


風情があるとは
数寄屋造りの家に行くと、「ああ、ここいいよね」という声を耳にするものだ。「なんか風情があっていい」と。風情があるとはどういうことだろうか。風情とは、良き古めかしさというのが、大方の概念である。モダンな建物を指して風情がある、とは聞かない。風情があるというのは、人間の原風景となり得るような、自然とどこか一体感のあるもの、それらを風情がある、と言うわけである。ある種の手作り感の中の世界である。大きな重機を持ってきて、コンクリを流し込んで、鉄骨を組み立てていく、というのとはちょっと違う。
ところが、いまの時代から一千年が経って、不思議な空間が世の中に登場している未来から、ふと一千年前のこの日本を覗き見ると、コンクリのビルでさえ、「ああ風情がある」「あの頃のは手作り感があっていいね」となるわけである。即ちその風情感というのは、実にその人の感性の基準に他ならないということである。
所詮は相対の域を出ないということである。相対は絶対観にはなり得ないということでもある。美なる概念は個々人で異なるものだ。一律に統一された美は存在しない。飽くまで相対化の中で比べられ、自身の個人的体験との摺り合わせを経て、その良し悪しが語られるのであって、「これ」という絶対美は存在しない。その様な中にあって、世界人類が共通に感動する美がある。それは自然の営みから受け取られる夕陽や花々などあらゆるものである。自分に危害を加える物を除く多くの自然形態を人は共通して美しいと感じ、また共通に感動する。
だが一歩抽象概念としての美を理解しようとすると千差万別の反応を受けるようになる。侘び寂びも爾りである。その中にあって自身の美を追求し、「侘び」なる新世界に足を一歩踏み入れるのはとても魅力的である。何故ならそこには限りない思索の世界が広がり限りない知性の輝きが待ち受けているからである。
森神逍遥「侘び然び幽玄のこころ」より

美術の理解(アートを通して創造教育を)

創作の時間とは、自由な線を描く。自由に着色する。そのことは、誰からも指示をされることなく、自らの力で仕上げる。 仕上がった作品が褒められることが嬉しい気持ちとなり、自信に繋がる。 作品を仕上げることで主体的な動きができる。 現代は、情報化社会。そのため、どうしても受け身になってしまう。それは、幼児から子どもの教育に悪式ことだと考える。そこでアートは、それらを払拭させることができると確信している。

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