2018年の記憶
池田市の逸翁美術館では、この20日から応挙は雪松、呉春は白梅が開催されます。
応挙と写生画
写生画
京都の写生画家としては,伊藤若冲(いとうじゃくちゅう,1716~1800)がその先駆者として注目され,この若冲よりやや遅れて登場した円山応挙(まるやまおうきょ,1733~95)が写生画を大成したといわれています。応挙の画風は,当時の京都画壇を風靡し,門人は1000人といわれるほどでした。世に言う円山派です。
この画風は,応挙の門人で気品高い美人画に優れた源琦(げんき,1747~97)や奇抜で奔放な作品を描いた長沢蘆雪(ながさわろせつ,1755~99)などの応門十哲や応挙の長男である円山応瑞(おうずい,1766~1829),次男の木下応受(きのしたおうじゅ,1777~1815)によって継承されます。
円山派から四条派へ
応挙を中心にした円山派の全盛時代が終わったあと,文人画家である与謝蕪村の弟子で,のちに応挙の影響を受けた呉春(ごしゅん,松村月渓<まつむらげっけい>,1752~1811)から始まる四条派が,京都画壇を席巻するようになります。
四条派は円山派の写生的な描写を吸収して,一つの画風をつくりあげました。その画風は,写実的描写力を徹底して深化させることはせず,適度なところで装飾性と調和させ,あわせて詩的情緒にも意を配る,穏健な作風のもので,その結果,世間の幅広い支持をとりつけました。
この画風は,その後,呉春の弟の松村景文(まつむらけいぶん,1779~1843)や京都郊外の風物を近代的感覚でとらえた岡本豊彦(おかもととよひこ,1773~1845)に引き継がれ,明治以後の近代日本画のいしずえとなっていくのです。なお,京都の商家では,円山・四条派の作品が特に好まれ,現在でも多くの作品が残されています。
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